山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第289回

2016.04.15

29390023(芦屋釜・2016茶道具・ほっぷ289)

写真は、古い茶釜です。胴には、毛利家の家紋である「一に三つ星」が浮き出された、面白いものです。胴に比べて口の部分がすぼまった鶴首(つるくび)の釜で、口廻りには雷文が彫り表されています。鐶付(かんつき)は遠山(とおやま)、もとは素直な鶴首釜だったと思われますが、底をつぎ直して、いわゆる尾垂(おだれ)としたもののようです。

 

表千家七世如心斎宗左の箱書によると、この釜は、古芦屋だとのことです。わざわざ毛利家の家紋を鋳出していますし、古芦屋隆盛の戦国時代、毛利元就の勢力は芦屋を含んだ北部九州にまで及んでいましたから、この釜は、毛利家の注文により作られたものかもしれません。

 

如心斎宗左といえば、実弟の裏千家一燈宗室や、高弟の川上不白等とともに、新たな時代にふさわしい茶風を生み出し、七事式を制定するなど、千家中興と目される人物です。さらには、早くから紀州藩に茶堂として仕えていた表千家の宗匠として、紀州藩主徳川吉宗が将軍家を継承した時を逃さず、紀州藩の付家老新宮水野家の家臣であった高弟川上不白を江戸に遣わして、千家の茶の湯を江戸に広め、今日の千家茶道隆盛の基礎を築いた人物とされています。

 

江戸に派遣された不白は、紀州人脈を活かして、手広く門弟を集めたようです。その中には、父祖の代に紀州から移り住み、最高権力者に上り詰めた田沼意次なども含まれていました。長州(萩)藩の七代藩主毛利重就(しげたか)もまた、不白に入門した有力者の一人でした。

 

重就は、自らの家臣を不白に入門させ、不白の茶の湯を藩内に広めるだけでなく、不白の七事式を実践するため、隠居場の三田尻御殿に、特に許しを得て茶室「花月楼」を作るなど、かなり熱心な門弟だったようです。重就の入門時期が定かでなく、確証はできませんが、この芦屋釜の極めもまた、重就と不白・表千家との密接な関わりを示す可能性があるのです。