山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第287回

2016.04.01

st毛利家160401正装

写真は、明治時代に公爵に任じられた毛利元徳・安子夫妻の肖像写真です。欧州の貴族に倣ったのでしょうか、公爵の制服を着用し、夫人同伴で写真におさまっています。写真そのものがそうですが、構図も江戸時代以前では考えられず、「文明開化」ならではの写真といえます。

 
よく知られた事実ですが、元徳・安子ともに、幕末の長州(萩)藩主毛利敬親の養子でした。実子が成長しなかった敬親は、親族の支藩主徳山毛利家と長府毛利家から、それぞれを養子として迎え、毛利の家を託したのです。親族を養子とする例は、さほど珍しくはありませんが、夫妻ともに親族から養子に迎え、結婚させるというのは、さすがにこの時代でも珍しいのではないかと思われます。

 

大名に限ったことではありませんが、前近代の婚姻は、基本的に家を維持し、発展させるための、重要な方策の一つですから、何も考えなしに進められることはあり得ません。

たとえば、婚姻が家の存亡に直接影響をもたらすことも多かった戦国期、元就は隣接する同格の国人領主吉川家から妻妙玖を迎え、のちの「毛利両川」の基礎を築いています。元就の子隆元は、大内氏領国下における毛利家の地位上昇に伴い、大内義隆の重臣内藤興盛の娘を妻に迎えています。彼女は実家の内藤家と毛利家を結びつけ、毛利氏の防長制覇を助けました。

 

これらはいずれも、毛利家の安泰を目指して、外部から妻を迎えた例ですが、元就の孫輝元は、宍戸隆家に嫁いだ元就娘の子、南大方を宍戸家から妻に迎えています。これは、当時係争中であった大名大友氏との縁談を差し置いてでも、元就・隆元父子が熱望した結果、実現した婚姻だったようです。大友氏や尼子氏など、戦国大名との熾烈な戦いで、元就らは、毛利氏権力の中枢を、さらに強固にする必要を感じていたのです。

 

さて、毛利敬親の場合、どのような意図から元徳・安子の縁組を実現させたのでしょう。