山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

お問い合わせはこちら

第284回

2016.03.11

94420001(雛道具・2015雛・ほっぷ284)

写真は、お雛さまの婚礼道具として作られた「雛道具(ひなどうぐ)」一式の一部です。

 
箱に「梅印」と墨書されていますから、明治以降「梅御殿様」と呼ばれた、幕末の長州(萩)藩主毛利敬親の正室都美姫(とみひめ)の雛道具であるとわかります。

 

「御内証の雛」と呼ばれ、姫君の居室で私的に楽しむ小さな雛とは異なり、この雛道具は、輿にいたっては高さ三十センチメートルを越える、大きなものです。特徴としては、すべての文様が唐草で統一され、毛利家の家紋である「沢瀉(おもだか)」が蒔絵で描かれていることです。このような大柄な雛道具は、やはり大型の雛人形と合わせて、今のひなまつりに相当する「上巳(じょうし)の節句」の時期に、御殿の広間に飾り付けられ、臣下とともに女子の幸福を願ったと言います。また、家の紋が大きくあしらわれた雛道具は、実際の婚礼道具の雛形として作られたともいいます。
こうした説に従うならば、この雛道具は、都美姫が敬親の許に嫁ぐとき、持参した雛道具だと考えられます。実は都美姫は、敬親の先代藩主毛利斉広の実子でしたから、付された家紋が、毛利家の家紋「沢瀉」であって何ら矛盾はありません。都美姫の遺品には、斉広正室の貞惇院ゆかりのものがありますので、斉広の忘れ形見として大切に育てられたのでしょう。

 

しかし、『もりのしげり』によると、都美姫の婚礼は、やや複雑です。都美姫が敬親の「養方姪」に当たり、障りがあるため、一族の子として幕府には届けたというのです。この記述そのものにもやや釈然としない点がありますが、とにかく敬親が、斉広の末期の際に、あわてて定められた養子であったことに伴う混乱が、後々まで尾を引いたと考えざるを得ません。

 
敬親を、当初から都美姫の婿養子として迎えるつもりなら、後々面倒が起きない継承を考えたはずです。この時期の代替わり、婚姻については、背景を掘り下げる必要があるようです。