山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第283回

2016.03.04

写真は、『栄花物語』の一節、藤原道長の正室倫子(りんし)還暦の祝いを描いたものです。道長といえば、娘を次々と入内させ、天皇家の外戚としての地位を盤石にし、藤原氏による、いわゆる「摂関政治」の最盛期をもたらした人物として知られています。

 
宇多源氏の重鎮として、藤原氏にも匹敵する実力を有した源雅信の娘倫子を妻に娶ったことも、道長躍進の要因の一つだったようです。この絵は、娘を次々と入内させ、天皇の外戚として道長とともに准三后(じゅさんごう)に任じられた倫子の還暦にふさわしい盛大な式の様子を、『栄花物語』の記述に即して正式に描いたものだとされます。作者は住吉広行。

 
一般に、藤原道長の時代は、『源氏物語』に代表されるように、華やかな貴族文化である「国風文化」の時代とされます。道長自身、「望月」の歌で示されるように、栄耀栄華を極めたかのように考えられています。しかし、実際に「国風文化」が最盛を迎えたのは、皮肉にも摂関家の勢いに陰りの見え始めた院政期であったといいます。大規模な造寺・造仏に代表されるこの時期の文化は、まるで浄土の世界をこの世に出現させたかのように、派手で華美であったとされます。また一面では退廃的でもあり、まさに蕩尽と呼ぶにふさわしく、結果として貴族の権力を後退させ、後に武士の世をもたらす一因となったともされています。

 
箱書によると、この絵は、長州(萩)藩の八代藩主毛利治親(はるちか)の正室節姫(ときひめ)が作らせたもののようです。節姫は、治親の父重就(しげたか)によって、毛利家と徳川将軍家を結びつけるため、将軍家の親族である御三卿田安家から迎えられた人物です。

 

重就は、閨閥の形成に、努力と資力を惜しまなかった人物ですが、こうした方針は孫の十代藩主斉煕に引き継がれました。斉煕は子の斉広に将軍の娘を迎え、毛利家の家格を押し上げることに成功します。しかし同時に斉煕の蕩尽は、藩財政を窮地に陥れるものでもありました。

st毛利家160304舞楽図