山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第282回

2016.02.26

 

写真は、女st毛利家160226雛性用大礼服(たいれいふく)のトレーンといいます。トレーンとは、腰の部分に付ける引き裾のことです。これは、公爵となった毛利元徳の正室安子(銀姫)のものです。

 
明治新政府は、日本が近代国家に生まれ変わったことを諸外国に認めさせるため、政治体制の整備と平行して、洋服による服制の確立に努めたとされます。これは女性も例外ではなく、女性用の礼式用の洋装も、明治十九年(一八八六)の宮内省内達により定められたそうです。文化学園大学博物館学研究室の植木淑子氏によると、女性の場合、フランス第三帝政期の宮廷服をモデルに、大礼服としてはマント・ド・クールが採用されたといいます。これは、新年式に用いられたとされ、この長いトレーンが特徴とされます。

翌年正月、皇后は、思召書を発して、洋装の推進と、国産織物の積極的な利用による、殖産興業への協力を訴えています。毛利家に残された、安子の洋装に関する遺品には、確かに日本の伝統的な文様を取り入れたものが多く残されています。これは、先の植木氏によると、安子が、皇后の施策に積極的に応じていたことを示すとされます。

 
毛利家は、他の華族に先駆けて東京高輪邸に洋館を建設したといいます。また、当主元徳・安子夫妻は、当時まだ珍しかった写真撮影にも積極的に応じていました。毛利家は、国内においてもいち早く西欧化に馴致していた華族の一つであったことはまちがいないようです。

 
この時期宮中の洋風化を推し進めたのは、初代内閣総理大臣となった伊藤博文であったといいます。また条約改正のため、鹿鳴館に代表される欧化政策を推進したのは、やはり長州(山口)藩出身の井上馨だったことはよく知られています。政府内における西欧化が長州藩出身者により推進されたことと、毛利家が積極的に欧風化を受け入れた事実が、単なる偶然であったのでしょうか。それとも何らかの関連があったのでしょうか。検討が必要のように思われます。