山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第281回

2016.02.19

補正04570002(間着・2015雛・ほっぷ281)

写真は、江戸時代の女性が身にまとった間着(あいぎ)という衣裳です。間着は、打掛(うちかけ)と下着との間に着る着物という意味で「あいぎ」と呼ばれているようです。一説によれば、紅地の間着は冬の間に着られるといいます。たしかにこの間着も、中に厚い綿が入れられていますので、寒い冬に備えたものだろうとわかります。また上流階級の女性の品でありながら、縮緬地ですから、堅苦しい場で用いたものでないのかもしれません。

 

地文様には梅や桔梗の丸文様が織り表され、襟から裾にかけては刺繍で籬(まがき)に南天文様が描かれています。南天は「難を転ずる」に通じることから、江戸時代の人たちが好んで用いた意匠です。

 

残念なことに誰が着用したのかはわかっていません。ただ一目で豪華なものだとはわかりますので、しかるべき姫君のものだったのでしょう。藩主やその夫人・子女たちをまとめて、当時は「上々様」と呼んでいました。この間着を見るだけでも想像がつきますが、田中誠二氏によると、藩主を含めた「上々様」の浪費、特に江戸表における派手なくらしは、藩財政を圧迫したため、膨らむ借銀の返済に苦しむ財政担当者からは、常に目の敵にされていたようです。

 

ただこうした派手なくらしは、一方で、世子斉広(なりとお)への将軍徳川家斉の十八女和姫の降嫁、それに伴い藩主斉煕・斉元・斉広・敬親四代が続けてそれまでの毛利氏の家格を越えた「少将成(しょうしょうなり)」を遂げるなど、毛利家にとっては空前の家格上昇とうらはらのものでもありました。江戸時代の価値観からすれば、家格の上昇は、決して忌避すべきことではなく、むしろ何にもまして歓迎すべきことだったようです。

 

とはいえ下級藩士や領民の生活が成り立たないことには、天保二年(一八三一)のように一揆を誘発する恐れもありました。幕末の藩主となった毛利敬親がまず直面したのは、この大藩としての家格上昇と、財政支出の削減という相反することがらを、いかに両立させるかという難しい課題だったといえます。