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第280回

2016.02.12

nt毛利家160212古今雛写真は、「古今雛(こきんびな)」という雛人形です。古今雛は、江戸後期に原舟月が考案したとされます。江戸時代後期から近代にかけて流行し、現代につながる雛人形だとされます。

 

この古今雛は、箱書によると、公爵毛利元昭(元徳・安子夫妻の長男)夫人として、公爵三条家から、明治二十六年(一八九三)に毛利家に嫁いできた美佐子(三条実美の娘)に対して、一族の吉川重吉(ちょうきち)が献上したもののようです。

 

吉川重吉は、一族の岩国領主吉川経幹(つねまさ)の子でしたが、元昭の祖父で、長州(萩)藩の十三代藩主を務めた毛利敬親の要望によって、敬親の養子となった人物です。明治二十四年(一八九一)には別家を建て、特旨によって男爵に任じられています。福田東亜氏によると、重吉は、井上馨とともに、毛利家一族の県内居住を推し進めたとされ、近代公爵毛利家のあり方にも大きな影響を与えた、重要な人物のようです。

 

毛利敬親が吉川重吉を養子に迎えたのは、文久三年(一八六三)二月のことでした。参勤を終えた帰国の途次、敬親が岩国を訪れ、吉川家の処遇を長府・徳山などと同様の「末家」に引き上げると約束し、同時に重吉を養子に迎えることを望んだとされています。

 

前年、長州藩は、「天朝への忠節」を、藩是の第一に据えると決めていました。朝廷の究極の意向は、ペリー来航以来の諸外国との条約破棄、開港場の速やかな閉鎖、外国人の排除など、いわゆる「攘夷」の実行でしたから、長州藩も、以後、藩庁移転など、攘夷の実現に向けて尽力することとなります。吉川家の家格上昇も、吉川家積年の願いではありましたが、攘夷実現のため、毛利宗家への協力を求めた代償とみなすこともできそうです。ただこの頃の幕府・朝廷首脳部の「攘夷」への意向は、そこまで性急ではなかったともいいます。この段階で、敬親たちが、何を想定していたのか、もう少し具体的に考えてみる必要がありそうです。