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第279回

2016.02.05

毛利家150911半5_訂

写真は、毛利安子所用のドレスです。後ろ側から写すとよくわかるのですが、腰のふくらみを際立たせたところが特徴なのだそうです。文化学園大学の植木淑子氏によると、この「バッスル・スタイル」と呼ばれるドレスは、日本女性の洋装最初期、まさに鹿鳴館の時代に着用されたものだそうです。遺品も少なく、大変貴重なのだそうです。

 

このドレスを着用した毛利安子は、明治五年(一八七二)までは銀姫と名乗っていました。ドラマでは「銀姫(ぎんひめ)」と呼ばれていましたから、この名の方が知られているかもしれません。銀姫は、天保十四年(一八四三)、支藩長府毛利家に生まれました。九歳になった嘉永四年(一八五一)八月、本家で長州(萩)藩十三代藩主の毛利敬親に、養女として迎えられます。後に夫となる元徳が、同じく支藩の徳山毛利家から養子に迎えられたのは、三か月後の同年十一月のことでした。『もりのしげり』によると、二人が結婚したのは、安政五年(一八五八)、銀姫十六歳、元徳二十歳の時だそうです。いつ結婚が決められたかは、定かではありません。『もりのしげり』によると、元徳は養子とされて三年後の安政元年(一八五四)、改めて「聟養子」とされていますから、正式な婚約はこのときだったのでしょう。

 

実子が成長しなかった敬親にとって、養子を迎えることは必然でしたが、後継者となる二人を、徳山・長府両支藩から迎えたのは、両支藩と本藩との結束を固めようとする目的があったことはまちがいないと思われます。

 

では、なぜ敬親は、両支藩との結束を固める必要を感じていたのでしょう。嘉永四年といえば、まだ黒船も来ていない頃です。当然倒幕など念頭にすらなかったでしょう。分家・支藩とはいえ、本藩から自立した、れっきとした大名であるこの両家は、時に本藩との間に摩擦を生じることもあったようです。敬親はいったい、どんな摩擦を避けようとしたのでしょうか。