山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第277回

2016.01.22

10_1(青緑山水図・2015正月・ほっぷ277)

写真は、田能村直入(たのむらちょくにゅう)が描いた「青緑山水図」という水墨画です。田能村直入は、豊後国(大分県)岡藩の藩士でしたが、同じく藩士で、南画界の大家となった田能村竹田を継いだ人物です。明治維新後も、京都南画界の重鎮として活躍したといいます。

 

「青緑山水図」とは、青や緑の絵の具を用いて青々とした風景を描いた水墨画のことだそうです。この絵も、霞がたなびく谷間の集落の、梅の木に白い花がたくさん開いた様子を描いていますから、春先のみずみずしい風景を描いたもののようです。

 

この絵は、「郭子儀図」とともに、明治五年(一八七二)九月、長州(山口)藩の御用を務めていた大坂の豪商加島屋の当主広岡久右衛門が献上したものです。献上の経緯は定かでありませんが、毛利家と加島屋との、江戸時代以来のつながりを強く示すものだと思われます。

 

左上には、献上に先立つ明治三年(一八七〇)秋、「南陽園」において、「三位毛利公」、すなわち毛利元徳の高覧に供したと記されています。同時に献上された「郭子儀図」には、同じく毛利敬親の高賞を得たと記されています。款記からすると、この二幅は、毛利敬親・元徳父子同席の場で、一度披露されたもののようです。

 

ここに記されている「南陽園」とは、萩城下に毛利家が設けた別邸「南苑御殿」のことだと思われます。明治三年といえば、すでに藩庁が山口に移されていましたので、敬親・元徳父子もまた、山口に居を移していました。隠居の敬親は別としても、知藩事に任命されていた元徳は、日々の政務を山口でこなしていたはずですが、何のために萩に戻っていたのでしょうか。

 この後まもなく、山口藩は、維持費用節約のため、萩城解体を政府に申請します。ここで、城下町としての萩は、その姿を変えざるを得なくなりました。これまで防長二国にまたがる領国経済の中心であった萩が、どう変貌して現在にいたるのか、検討すべき課題は多いようです。