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第275回

2016.01.08

Print 写真は、毛利元就が用いたとされる軍扇です。軍扇とは、武将が戦陣で用いる扇のことです。これは、表裏とも全体に金箔を貼り、表には朱で大きな日の丸を、裏には銀で三日月を描いています。一説によると、このような扇は、一般に「軍師」と呼ばれる人が用いたとされ、この軍扇を翻すことによって日月を進めて悪日を吉日に替えたといいます。その真偽はさておき、いかにも知略と軍略で戦国の世を生き延びた毛利元就にふさわしい軍扇なのかもしれません。

 

この軍扇は、同じく元就所用の伝承をもつ「御佳例吉甲胄」とともに、毛利家伝統の正月飾りとして、現在でも毎年正月にあわせて展示しています。「ごかれいきつ」もしくは「ごかれいきち」ともいい、「めでたい先例」という意味の名が付けられたこの甲胄は、残念ながら様式的にみると、桃山時代のものです。したがって、元就のものではあり得ません。おそらく江戸時代以降のどこかで、元就の名を付した伝承が形作られたのでしょう。

 

写真の軍扇は、この甲胄の付属品として、これまで伝えられてきたものです。古いものであることは間違いなさそうですが、甲胄の所伝が誤りである以上、この軍扇も、果たして元就のものかどうか、かなり怪しくならざるを得ないのです。

 

元就の子吉川元春・小早川隆景や、孫の輝元が、織田信長との戦いや、関ヶ原敗戦の後、しばしば元就の名を持ち出し、毛利家の危機を乗り切ろうとしたことは、よく知られています。また元治元年(一八六四)、毛利慶親(敬親)・定広(元徳)父子が、京都へ進発する長州(萩)藩兵に対して与えたのは、元就とその子隆元が連名で定めた軍令書でした。

 

三百年も昔の軍令に、敬親や元徳、さらにはそれを与えられた軍の首脳たちがどこまで期待していたかは不明です。しかし、京都進攻という、当時としては明らかな「暴挙」を、藩一丸となって成し遂げるには、元就の名を持ち出さなくてはならなかったのでしょうか。