山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第274回

2015.12.25

写真は、田能村直入が描いた「郭子儀図」です。直入は、豊後岡藩(大分県竹田市)の出身の南画家です。田能村竹田の養子となり、近代には上方南画界の重鎮として活躍しました。

 

毛利家151225郭子儀図yo

郭子儀は、中国唐代に活躍した武将です。富貴を極め、長寿を保つとともに、子らもそれぞれ出世し、多くの孫に恵まれたことから、「富貴」「長寿」の象徴として知られていたようです。

 

この絵も、多くの子や孫に囲まれて幸せそうな、福々しい好々爺として描かれています。

右上の款記には、直入自ら、明治三年(一八七〇)秋、「南陽園」において「大納言毛利二位公」の高賞を得たと記しています。南陽園は、萩にあった藩主毛利家の別邸「南苑御殿」のことだと思われます。直入は、萩でこの絵を毛利敬親に見せたようです。箱書によると、その後明治五年(一八七二)九月に、改めて広岡久右衛門がこの絵を献上したようです。

 

この絵を献上した広岡久右衛門は、大坂の豪商加島屋の当主でした。長州(萩)藩は、この加島屋からの多額の借銀により、財政を保っていました。禁門の変により長州藩が朝敵とされると、長州藩の大坂蔵屋敷は、幕府によって没収され、長州藩は大坂商人から資金を得る手立てを失いました。田中誠二氏によると、加島屋もまた、長州藩への協力を疑われ、幕府への多額の資銀を提供することで、当面の危機を乗り切ったようです。

明治三年といえば、戊辰戦争こそ勝利を得たものの、その後の脱隊騒動などにより、依然藩内は騒然としていました。一方で、戦争によって膨れ上がった藩債や藩札の処理を、本格的に考えなくてはならない時期でもありました。

安易な推測はできませんが、高覧と献上の時期の近さから考えて、明治三年の、毛利敬親によるこの絵の高覧にも、加島屋はどこかで関与していたのでしょう。この絵は、長州藩と御用達商人たちとの、どのような交渉の場面を見てきたのでしょうか。想像は尽きません。