山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第273回

2015.12.18

写真は、毛利家伝統の「正月飾り」とされているものです。毛利元就所用とされる「御佳例吉甲胄」に「日の丸軍扇」、福原貞俊ゆかりの伝承をもつ「御佳例盃」、長州(萩)藩の初代藩主毛利秀就ゆかりの「御重代太刀」を組み合わせたものです。

 

これらはいずれも、中国八か国を治めていたかつての栄光と、藩祖の栄誉を偲ぶ品々で、これらを並べることで、長州藩ならびに毛利家の永続と、さらなる発展を願ったものといえます。

 

毛利家151218_正月飾り「年始規式」とよばれる、新年行事の式次第からは、「御佳例盃」が、家臣に酒を振る舞うときに用いられたことがわかります。この盃は、全体を朱で塗り、内法は金とした、平たい大きな盃です。一説では、重臣福原貞俊がこの盃を飲み干した、という伝承があるそうです。

 

毛利氏が大名として自立する過程で、隠居元就と、長男の当主隆元は、しばしば意見を交換しています。そのなかでこの父子は、福原貞俊や他の老臣を、かなり厳しく評価しています。岸田裕之氏によるとそれは、彼らの仕置に恣意的な判断が多く、遠国の軍役を避けたがるなど、家中の頂点に立つ者として、その振る舞いが分別に欠けると判断したためのようです。これは大国となった毛利氏にとって、政権中枢部分の致命的な欠陥であり、深刻な問題でした。

 

しかし元就は、一方で貞俊のことを、「正路」の人と呼び、「表裏」なく、「よろけ」ることなく奉公してきた実績を評価していました。そこで貞俊に、家中の重石として、吉川元春・小早川隆景の「両川」とともに、若くして毛利氏の当主となった孫輝元の補佐を頼んだのです。

 

その後貞俊は、輝元を支え、織田信長との戦争を戦い抜きます。腰が重たく、時代の流れを敏感に読み取るタイプの武将ではなかったようですが、あの信長を相手に、毛利氏領国を守り抜いたのですから、彼もまたひとかどの人物だったのでしょう。盃の伝承は、彼のこうした功績を反映したものなのかもしれません。