山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第272回

2015.12.11

写真は、慶応二年(一八六六)八月七日、当時、小田村素太郎と名乗っていた楫取素彦(かとりもとひこ)が、広島藩との交渉の様子を、柏村数馬らに知らせた自筆の書状です。

 

三家老の切腹、藩主毛毛利家151211小田村素太郎書状yo利敬親父子の謹慎により、一時は和睦した幕府と長州(萩)藩でしたが、その後の複雑な政治過程の中で、対立は再燃、慶応二年六月には、再び押し寄せた幕府軍との間に、激しい戦闘が行われました。

 

幕府軍が、四つの国境から押し寄せたため、この戦争は長州側では「四境戦争」と呼ばれています。いずれの国境でも、長州軍は優位に戦闘を進めていました。七月になると、当初から幕府への協力に消極的であった広島藩と、水面下で和睦の交渉も始められたようです。

 

この書状によると、長州藩側の窓口となった小田村は、拠点とした高森(岩国市)や、広島藩領の友田・玖島(ともに廿日市市)で広島藩の使者と談判に及んだようです。藩領内が戦場とされた広島藩も、戦場を広げすぎた長州藩も、ともに停戦の必要を感じていたようですが、すでに長州軍が玖島辺りまで占領していること、広島城内に滞在の幕府軍を退去させることの難しさ、広島側が、長州藩撤退後の山代口を抑えて、幕府軍の侵入を防ぐことが、現実にできるか、などの問題が障害となり、なかなか談判は進まなかったようです。

 

さらには、七月十八日に落城した浜田城のことが、広島藩側は気になったようです。石見口の戦いで長州藩は、親藩の浜田藩や、天領の大森代官所領を占領するのですが、占領後の処置が苛酷だったらしく、広島藩にも不信感を抱かせる結果となったようです。

 

何が「苛酷」だったのかは、ここでは定かではありませんが、矢野健太郎氏によると、長州軍の占領期には、かなり額の年貢が長州本国に送付されていたといいます。占領地での収奪は、それに止まらなかったようですが、このあたりのことは、さらなる検討が必要のようです。