山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第271回

2015.12.04

写真は、「日本国王之印」に添えられていた覚書です。「印判 二」とあり、このうち一つが、「日本国王之印」であろうと考えられています。「義長判形 一」とあるのは、おそらく大内義長の印鑑、「札紙 一」とあるのは、義長証状であろうかと考えられています。またst毛利家151204吉見正頼覚書、「朱布 一」なるものが存在したようですが、現在は行方がわからなくなっています。

 

これは、大内氏の滅亡時に、「日本国王之印」などを接収した人物が記したものだと考えられています。左下隅に、花押が据えられていますが、江戸時代になると、誰のことかわからなくなったようです。しかし、近代に入り、近代的な歴史学が導入されると、さまざまな事例が研究されました。その結果、この花押は、吉見正頼のものであると再認識されたようです。

 

吉見正頼は、津和野を本拠とする有力な国人領主の一人でした。大内義隆の姉を妻に迎えるなど、毛利氏を上回る格式を誇っていました。また、代々隣接する益田一族と対立していたこともあり、益田氏と姻戚であった陶晴賢と敵対し、晴賢によって居城を包囲されています。晴賢の攻勢に堪えかねた正頼は、結局晴賢と和睦しますが、津和野攻めのやりとりの中で、毛利元就の嫡男隆元は、晴賢への不信を募らせます。隆元の説得の結果、毛利氏は晴賢に反旗を翻し、厳島で晴賢を撃破するのです。

 

毛利氏の防長攻略に際して、吉見正頼は、毛利勢に呼応して、北から大内氏の本拠山口に攻め込みます。いち早く山口を占領した正頼が、素早く押収したのが、これらの印章類だったようです。大内氏の遺品の中でも、特に重要と判断した毛利氏が、正頼から回収したのでしょう。そのとき正頼が、進上目録として作成したのが、この覚書だったと考えられています。

 

ただ、この目録と、大内氏の遺品とされる、現存の勘合貿易資料とは、品目が一致しません。一体どのように正頼が押収したのか、それを毛利氏が回収したのか、謎は深まるばかりです。