山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

お問い合わせはこちら

第270回

2015.11.27

st毛利家151127_大内義長証状写真は、「大内義長証状」といい、「日本国王之印」やその「印箱」などとともに、かつての長州(萩)藩主毛利家に、長らく伝えられてきた書類です。

 

紙の中央に「日本国王之印」を押し、朱の印文の上に墨書で、「この印は、かつて明国より賜ったものだ」という趣旨の一文が記されています。末尾には、年月とともに、義長の署判が据えられています。花押は義長のものにまちがいなく、墨跡なども義長と同じ時代とみてよさそうですので、なんら怪しいところはありません。

 

しかし、この証状、いったい何のために、義長が作成したのでしょう。これまで、その制作目的は不明でした。近年鹿毛敏夫氏が、義長が派遣した遣明船に関連するのでは、と指摘していますが、傾聴に値する見解かと思われます。

 

大内義長は、大内氏の重臣陶晴賢により、主君大内義隆を廃されたのち、豊後国の大友氏から迎えられた当主でした。毛利元就が防長に侵攻したとき、実兄の大友義鎮は、元就と密約を交わし、義長を救わなかったことから、長らくこの兄弟は疎遠と考えられていました。しかし、実際には、共同で明国に使節を派遣しようとするなど、かなり緊密な間柄だったようです。

 

戦国の密約などあてにはならないことを熟知していた元就は、水軍を用いて、いち早く九州へ逃れようとする義長の退路を断ち、長門且山城に立て籠もった義長を、強引な政略を用いて迅速に降服させました。そのため大友義鎮は、防長に介入する隙を見いだすことができなかった、というのが実情のようです。

 

大内氏の滅亡後、毛利元就と大友義鎮は、関門海峡の覇権と博多の支配、北部九州の諸国人の帰趨をめぐって、激しい攻防を繰り広げます。度重なる大友義鎮の揺さぶりに対して、毛利氏の対九州戦略は、何度も修正を余儀なくされるのです。