山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第267回

2015.11.06

 

写真は、雪舟が描いた「四季山水図(山水長巻)」の部分です。古来よく知られた名作ですが、実は謎だらけ、何といっても、作者の雪舟自身が、謎だらけの人物なのです。山水長巻の巻末に、文明十八年(一四八六)の制作年と、六十七歳という年齢が記されていますかst毛利家151106_四季山水図ら、生年こそ応永二十七年(一四二〇)であることがわかりますが、没年は、確実なところはよくわかっていません。

 

備中国(今の岡山県西部)赤浜の生まれ、とされています。父母の名前もわからず、小田氏という豪族の出とされています。幼くして、赤浜近くの宝福寺という寺に入ったとされています。その後京都に上り、相国寺で修行したといいます。さらには、その後山口へ下り、大名大内氏に仕えて、応仁二年(一四六八)の遣明船に同乗、中国に渡って研鑽を積んだといいます。

 

周防国と縁のない雪舟が、なぜ大内氏に仕えることができたのか、船に乗ることができたのか、詳しくはよくわからないようです。ちまたでは、中世は、実力次第で何でもできた時代、と勘違いしている方もいるようですが、大名に仕えるためには、普通、何かの縁が必要でした。雪舟の場合は、京都時代の縁だと、考えざるを得ません。

 

当時の大名を始め有力な武士は、家督継承の候補から外された子弟を、寺に入れ、修行させることがよくありました。これは足利将軍家に倣ったものとされますが、河合正治氏らによると、無用な後継争いを避けるためと、修行後、帰国させて菩提寺の住持とし、一族結束の精神的な支柱にするためだったといいます。各地の有力武士の子弟が、競って京都で修行するのです。そこで培われた人脈は、全国に張り巡らされ、現在でいう外交・文化・軍事・学術など、ありとあらゆる分野で活用されました。雪舟が山口に下り、大内氏に仕えることができたのは、何らかの方法で、こうした人脈に連なることができたおかげ、と考えることが妥当なようです。