山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第266回

2015.10.30

写真は、明治二年(一八六九)六月に、毛利元徳(もうりもとのり)を、山口藩知事に任命した朝廷の命令書です。

 

これより先、元徳の養父敬親(たかちか)は、病身を理由に、藩主を隠退し、家督を元徳に譲りたいと朝st毛利家151030藩知事任命書廷に願
い出ています。この願い出には、朝廷から、「付紙(つけがみ)」という紙片が貼り付けられ、「後日回答する」旨の回答が記されていますので、実際に朝廷に提出され、受理されたことがわかります。

 

明治天皇の東京行きなどが重なり、敬親の隠退問題は、直ぐには回答されなかったようです。しかし、六月に入ると、敬親の願いはようやく認められ、元徳の家督相続が実現します。

 

その直後、敬親は参議から権大納言へ、同時に、元徳は少将から参議へと昇進を遂げています。官職体系が異なるので、単純に比べることはできませんが、豊臣政権下で、国務を預かる、五大老を務めた毛利輝元ですら、大納言より下位の権中納言どまりでしたから、この叙任は、毛利家にとっては、まさに破格のものだったといえます。これは、明治政府が、倒幕に対する敬親の功績を高く評価していたためであることは、まちがいないようです。

 

また、元徳の「参議成(さんぎなり)」は、養父敬親に続くものでした。毛利家の家格は、江戸初期以来、それより二段下の「侍従(じじゅう)」が定番でした。その上の「少将」でさえ、敬親の養父斉広や敬親の代になって、ようやく定着したような感もありますので、この元徳の「参議成」もまた、毛利家にとっては、家格の急上昇だったといえます。

 

明治維新により、大名そのものが解体されます。それゆえ気づきにくいのですが、幕末から維新期にかけての、毛利家の家格上昇は、著しいものでした。