山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第265回

2015.10.23

写真は、明治維新後、公爵となった毛利元徳の夫人安子所用のドレスです。写真は、背面から写したものですが、後腰部分が大きく盛り上がっていることがよくわかります。

 

毛利家151023ドレスyo

このドレスを調査した、文化学園大学博物館学研究室の植木淑子氏によると、後腰のふくらみこそが、このドレスの制作年代を特定する決め手なのだそうです。これは、一八八〇年代に西欧で流行した、バッスル・スタイルとよばれる様式だそうです。時はあたかも、日本に洋装が本格的に導入され始めた明治十年代後半のことです。氏によると、安子の洋装は、国内においても先進的なものであり、希有な遺品なのだそうです。

 

一方、その当時、明治新政府は、幕末に結ばれた不平等条約の改正を、重大な政策目標としていました。改正交渉の担当者であった、長州(萩)藩出身の外務卿井上馨が、迎賓施設としての本格的な洋館、鹿鳴館を建設したのは、明治十六年(一八八三)のことです。井上が、この施設を中核に、西欧文化の積極的な移植を図り、日本の文明国化を、諸外国に強くアピールしようとしたことは、よく知られているところです。また、井上の朋友でもあった伊藤博文は、翌十七年(一八八四)、宮内卿に就任すると、保守的な廷臣の抵抗を排しつつ、宮中の近代化や、儀式等の欧風化を進めたといいます。

 

植木氏とともに、このドレスの調査にあたった当館の小田陽子学芸員は、こうした周囲の事情を総合的に鑑みて、他家に先んじた毛利安子の洋装採用の、歴史的な意義を明らかにするためには、こうした政治的な要素をも加えて検討する必要があると主張しています。

 

この見解については、より詳しい検討が必要だと思われます。ただ、旧大名たちは、新時代の到来により、「ただの人」になったわけではありません。政府が、彼ら大名華族に、どのような役割を担わせようとしたのか、考えてみることは大切なことだと思われます。