山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第263回

2015.10.09

写真は、公毛利家151009毛利元徳安子公爵正装爵の礼服に身を包んだ、毛利元徳(もとのり)・安子夫妻の肖像写真です。当時、西欧諸国では、しばしば王侯が夫妻で写真に写ることもあったようですから、倣ったものなのでしょう。明治という新時代を象徴する、貴重な資料だと思われます。

 

『もりのしげり』によると、毛利安子は、天保十四年(一八四三)、支藩の長府藩主毛利元運(もとゆき)の次女として、江戸の長府藩邸で生まれたようです。嘉永四年(一八五一)、九歳の時、長州(萩)藩主毛利敬親の養女となります。同じ年に、後に夫となる元徳もまた、支藩徳山毛利家から、敬親の養子に迎えられています。敬親には、何人かの子がありましたが、どれも夭逝していました。安子・元徳が養子とされる前年の嘉永三年(一八五〇)には、正室都美姫(とみひめ)との間に、ようやく生まれた万世姫(ませひめ)が、満一歳にも満たず亡くなっています。これがきっかけだったのでしょうか、敬親も実子の誕生はしばらくあきらめ、毛利家の安泰のため、養子を迎えることにしたのでしょう。

 

安子と元徳の結婚は、安子が適齢期に達した安政五年(一八五八)のことでした。『もりのしげり』の元徳略歴には、「嘉永四年十一月朔日為六十七代敬親養子、安政元年二月十八日更為聟養子」と記されています。これをすなおに読めば、元徳と安子が養子とされてから、婚約が成立するまでに、二年以上の空白があったことになります。

 

この間の事情は、まだ明らかにすることができません。家の維持と繁栄が、藩の維持・繁栄と密接な関わりを有していた江戸時代、次代の藩主夫妻を決めることは、家の浮沈にも関わる重大な作業だったはずです。そのせいか、実子が育たなかった敬親は、多くの養子を迎えています。しかし、敬親が、どういう目的で養子縁組を結んだのか、個々の事例に関する、その政治的な背景については、まだよく検討されていないことも多いようです。