山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第262回

2015.10.02

毛利家151002毛利一族夫妻写真yo

写真は、毛利一族の集合写真です。記録によると、明治三十三年(一九〇〇)に撮影されたものだそうです。

後ろにひときわ高くそびえるのは、現在も山口市内の香山公園に残る「勅撰銅碑(ちょくせんどうひ)」と呼ばれる碑です。

 

臼杵華臣氏によると、明治二十九年(一八九六)一月、明治天皇は、明治維新における、長州(山口)藩主毛利敬親の功績をたたえるため、碑文の起草を命じました。この勅命を受けて、川田剛が文面を考え、能書家でもあった野村素介が揮毫、それに、陸軍大将にして参謀総長を務めていた、小松宮彰仁親王の筆による「贈従一位毛利公偉勲銘」の篆額を添えて、香山園内の敬親墓前に建立したのがこの碑だったようです。

 

この碑は、明治維新における毛利家の偉大な功績を証明する、毛利家にとって大変名誉なものでした。この写真も、敬親の偉勲を記念してわざわざ撮影されたものだと思われます。

 

敬親の跡を継ぎ、維新の功績により、初代公爵に任じられた毛利元徳は、明治二十九年末に五十八歳で死去していました。そのため、このとき毛利一族を率いていたのは、後列右から三人目、元徳嫡男にして、二代目公爵となった元昭(もとあきら)でした。ただし、この写真を見ると、居並ぶ一族のうち、明らかに中心に見えるのは、前列右から五番目、このときは落飾して妙好(みょうこう)と名乗っていた、敬親の正室都美姫(とみひめ)でしょう。

 

敬親や元徳ら男性にくらべ、彼女の動向は定かでありません。また、敬親の死とともに、一線を退いたようです。写真の妙好も、齢六十八の、小さなかわいらしい老婆にしか見えません。しかし、敬親の偉勲を象徴する碑を背に、彼女を中心に写された毛利一族の写真を見ると、一族結束の象徴として、大きな役割を果たしていたのではと想像せずにはいられないのです。