山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第261回

2015.09.25

これnt毛利家0925錦包二枚胴具足は、ドラマやさまざまな番組でも取り上げられましたので、ご承知とも存じますが、幕末の長州(萩)藩主毛利敬親の正室、都美姫(とみひめ)の具足です。

 

兜は黒々と漆を塗った烏帽子形(えぼしなり)、前面の前立(まえだて)は、毛利家の家紋沢瀉(おもだか)を金で塗り固めた豪華さです。胴の裾や草
摺(くさずり)は、徐々に茜色が濃くなる裾濃(すそご)文様、胴本体には錦を貼り、大袖にも金箔を、籠手(こて)の金具も、透し彫で枝菊を表した、さすがは藩主夫人の具足と思わせるような、派手な一品です。

 

都美姫は、天保四年(一八三三)、敬親の先代藩主、毛利斉広(なりとお)の長女として生まれました。斉広の、ただ一人の子でしたから、斉広が長命であったならば、しかるべき養子を婿にとって、となったのかもしれませんが、斉広は、都美姫四歳の時、天保七年(一八三六)十二月、藩主就任から一月にも満たないままに、急死します。慌てた藩は、斉広の死を秘したまま、当時は部屋住として萩で過ごしていた敬親を、江戸に呼び寄せます。そして、斉広が生きているかのごとくよそおい、敬親を養子として幕府に届け出ました。

 

斉広の死を秘すること三月、ようやく翌八年(一八三七)三月に、敬親が養子として認められると、斉広の死を公表し、敬親の家督相続を実現させます。この間の過程には、よくわからないことも多く、なぜ敬親だったのか、なぜ三か月も要したのかなど、疑問は尽きません。

 

斉広の一人娘だった都美姫は、弘化四年(一八四七)、敬親の正室として婚儀を挙げます。『もりのしげり』によると、このとき、敬親との続柄に障りがあるため、都美姫は一族であった、毛利親安の実子ということにされたようです。ここからは、都美姫と敬親との関係を、事前にうまく処理しないまま、敬親の養子縁組が進められたこと、敬親の養子縁組そのものが、かなり拙速なやりかたで進められたのではないかと、勘ぐらざるを得ないのです。