山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第260回

2015.09.18

明治元年(一八六八)に入り、会津藩などが相次いで降伏すると、明治新政府は、全国諸藩に対して、「藩知職制」とよばれる、組織改革を命じます。これは、幕府から接収した「天領」を、「府県」と変更したことに応じ、藩もまた、割拠する封建領主の牙城ではなく、新政府による地方統治の一機関とするため、各藩組織を均質化するための政策だとされています。

長州(山口)藩においても、この命にしたがい、これまでの家老職とは異なる、参政・執政の二職を新設し、藩主の下で藩政を統括させることとします。

 

写真は、同年十一月に、この両毛利家150911半5_訂職が発したと思われる「藩政改革」の告諭の一部です。たいへん長いものなのですが、要は、新政府体制の下で、役人の綱紀を正すべきこと、国是としての富国と強兵をめざすことなどを、新たな藩の目標とすべきと唱えているようです。

 

後に明治国家が国是とする「富国」と「強兵」が、この段階ですでに唱えられていることは、注目に値します。また、この「富国」のところで両職は、長州藩が代々「農政」すなわち在地の支配と徴税と、「金穀取締方」すなわち財政・経済政策に優れていたとも述べています。

 

田中誠二氏によると、この部分は、当時の藩の自己認識としては注目に値すると同時に、こうした「富国」において、列藩に遅れをとってはならないとの強い主張も見られ、この段階においてもなお、藩を独立した「国家」と考え、その「国益」を優先しようとする、江戸時代さながらの思想から、さほど抜け出てはいないとも指摘されています。

 

明治維新をどうとらえるかは、見方や見る人の立場により、さまざまに評価できるようです。ただ実態としては、当事者であった主導者層の認識ですら、新旧入り乱れており、彼らの実施する個別の改革もまた、その認識に応じたものとならざるを得なかったこと、したがって、政策によっては、新旧ちぐはぐにならざるを得なかったことは、無視できない事実のようです。