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第259回

2015.09.11

nt毛利家0911会桑追討見勅慶応三年(一八六七)十月十三日、中山忠能・正親町三条実愛・中御門経之三名の連署で、京都に乱入し、御所に発砲した、毛利敬親・元徳父子の罪を許すという勅書が作成されました。その翌日に下されたのが、将軍徳川慶喜の追討を命じた「討幕の密勅」と、この会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬を追討せよとの、いわゆる「会桑追討の密勅」です。

 

この両密勅もまた、勅とはいいながら、本来詔勅にあるべき、天皇の署名や画日などはなく、中山ら三名の署名によって発行された、形式的には勅と呼べるようなものではありません。

 

これらの密勅は、中山忠能が、前日の夜、明治天皇の許を密かに訪れ、密奏を遂げたのち、作成されたとされています。中山は、その娘が宮中に入り、明治天皇を生んだ、いわゆる明治天皇の実祖父にあたりますから、真夜中の密奏も、あり得たのかもしれません。が、しかし、今となっては、真実を確認する術はありません。

 

ただ、たとえ天皇の意を奉じたものであったとしても、発行手続きとしては、朝廷の廷臣会議を経たものでも、天皇を補佐する摂関の承認を得たものでもなく、江戸時代の朝廷政務の在り方からみると、すべての手続きを省略した、異例のものだったことはまちがいないようです。

 

幕末期の古文書を読むと、形式的には、朝廷の正規の手続きを踏んだか否か、必ずしも定かでない文書が、天皇の名で出され、すべて「勅」とされています。これらの中には、明らかに天皇が関与したものもあり、形式的な不備を以て、即「偽勅」と談ずることはできませんが、この密勅について、遠山茂樹氏は、昭和に至るまで秘せられた事実こそ、この勅の正当性がいかほどのものかを如実に物語ると指摘しています。

 

この密勅の持つ不透明性により、追討の対象とされた、徳川家、両松平家としては、自らは、無実の罪で貶められたのだ、との意識を強くさせざるを得なかったのです。