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第258回

2015.09.04

nt毛利家0904毛利敬親像文久三年(一八六三)七月、長州(萩)藩主毛利敬親は、居城を萩から山口へ移すことを宣言しました。いわゆる「山口移鎮」です。

 

敬親の命令によると、阿武郡の一隅に位置する萩城では、迫り来る外国勢力への対応、特に赤間関など、外国勢力との争点になるであろう「賊衝」の多い「南海」、すなわち瀬戸内側の指揮に不便であることが問題視されたようです。それに対して、領国の「中央の地」であり、戦闘指揮・出馬に適していることから、山口の地が選ばれたようです。

 

このとき敬親は、萩城を、「割拠戦闘」、すなわち他の大名と対峙して戦うには優れた「形勝之地」とも表現しています。同時に、萩城は「御先祖様」である毛利輝元・秀就父子が、その段階での分析に従って築造した城であり、要害であることに変わりないため、番兵を籠め置くことも宣言しています。

 

そして、今回の移転を、「古今形勢の変換」によるやむを得ない政策だとも表現しています。また、城内や萩にある、毛利家の霊社や、代々の廟所などは、崇敬を集めていることから、廃止すべきものではなく、これまで城を守衛してきた鎮守社は、山口へ移転させるとも宣言しています。この表現からは、この移転に、必ずしも全家臣が、すんなりと納得していたわけではないこと、家臣団にとって、三百年来居城とされてきた萩の地が、墳墓の地と認識され、根強い愛着が生じていたことを想像することができます。

 

萩への築城は、幕府の押しつけで、毛利氏の本意ではなかった、山口への移転は三百年来の悲願だった、という根拠のない見解が、いまだに根強く残っています。しかし、幕末における山口移鎮の命令を見る限りでは、この移転は、攘夷実行のため、家臣団の不満を抑えて断行したものと推測され、とても「三百年来の悲願」であったと考えることはできないのです。