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第257回

2015.08.28

nt毛利家0828毛利輝元像 関ヶ原敗戦後、徳川氏との和睦の証として、毛利輝元の嫡男秀就は、わずか六歳で単身江戸へ詰めることになります。父の輝元もまた、政局の中心である伏見をしばらく離れることはできませんでした。

 

徳川氏との関係が、ようやく安定し、輝元が新領国防長へと、初めて帰国できたのは、合戦から二年余も経た、慶長八年(一六〇三)のことでした。徳川家康の許可を得た輝元は、ここではじめて、自らの居城作りに、本格的に取り組むことができたようです。

 

帰国後、輝元がとりあえず落ち着いたのは、大内氏以来、防長の中心地であった、山口の髙嶺(こうのみね)城でした。髙嶺城は急峻な山城であったためか、実際に輝元が宿所としたのは、『毛利輝元卿伝』によると、糸米の覚王寺という寺院でした。

 

早速、城地の選定を行った輝元が、最初に目を付けたのは、防府の桑山でした。当時はまだ瀬戸内海に浮かぶ島だったようですが、「所柄がよい」というのが、候補に挙げられた理由だったようです。しかし、同時に輝元は、桑山は砂山で、石垣を作ることができない、とも記しています。織田信長の安土城以降、その諸政策を引き継いだ豊臣政権の各武将が、西国各地に築いた城には、技術力と権威を示す、石垣がつきものだったようです。秀吉の大坂城や聚楽第を見てきた、輝元が築いた広島城もまた、平城でしたが、石垣の上に天守がそびえる城でした。

 

輝元は、石垣を必須のものと考えていたようですが、家臣への手紙の中で、砂山で石垣のできない桑山では、「手間明はなく候」と伝えています。これは、強靱ではない石垣をたえず補強しなくてはならないことを示すと思われます。

 

結局、桑山は選ばれませんでした。それは、輝元も問題としていた、築城後に城を維持するための、経費と労力が、当時の毛利氏の能力を超える負担だと判断されたのでしょう。