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第256回

2015.08.21

慶長五年(一六〇〇)十月十日、徳川家康は、毛利輝元・秀就父子に起請文を与え、輝元・秀就父子の身命を保証すること、防長二州を改めて給与すること、以後のことについては連絡を密にすることを誓いました。輝元もこれを受諾し、関ヶ原敗戦後の講和が成立します。これにより、大名としての存続は保証されましたが、それは七か国を失う、過酷なものでした。

 

その後間もなく、輝元は、かつて大徳寺住持を務めていた玉仲宗琇を導師として剃髪、「宗瑞」の法号を与えられます。玉仲は、輝元の叔父小早川隆景の帰依を受け、隆景が再興した大徳寺の子院黄梅院の住持を務めていた、毛利家ともゆかりの深い人物でした。

 

元就以来の大領国を、一挙に失ったのですから、責任を感じてのことだったのでしょう。このとき輝元は、隠居し、わずか六歳の長男秀就に家督を譲ったとされています。

 

しかし、実際には、その後も、家nt毛利家0821毛利秀就像臣への知行配りや相続安堵など、主従関係の根幹をなす部分は、輝元が握っていました。現在では、輝元から秀就に、正式に領国の統治権が譲られるのは、秀就が成長して以後のことと考えられています。

 

一般的に、鎌倉・室町時代の武家は、必ずしも長子が家督を継ぐとは限りませんでしたから、誰が、前当主のどの権限や財産を引き継ぐのかを、明確にしておく必要がありました。そのため、当主が、「譲状(ゆずりじょう)」という書類を作成して、権利関係を明確にしていました。

 

毛利家の場合も、初めて吉田荘(広島県安芸高田市)を本拠とした時親以降、元就の兄興元まで、代々譲状が作成されています。元就以降、嫡男の立場を強くするためか、あえて譲状を作成しなくなります。そのため、家督継承は、文書上は、却って不明瞭になりました。

 

関ヶ原後、輝元が隠居したという見方は、文書を伴わない家督継承の一般化や、大敗北に伴う輝元の出家という衝撃的な事実から、厳密な考証を経ず、成立したもののようです。