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第255回

2015.08.14

nt毛利家0814豊臣秀吉領知判物写真は、天正十九年(一五九一)豊臣秀吉が、毛利輝元から検地の報告を受けて、毛利氏の領国を九か国百十二万石と認定した書類で、領知判物(りょうちはんもつ)といいます。

 

領知判物とは、天下人である関白秀吉や、徳川将軍が、大名や寺社などの領主層に対して、一定の領域とその人民に対する支配権、いわゆる領知を認めるため発行する書類のことです。各大名にとっては、領国支配の根幹をなす重要書類として、大切なものでした。また、各大名家においても、各家臣団に対して所領を給付する際には、大名の名で発行されていました。

 

この判物には、別に領知目録が付属しています。そこには、百十二万石の内訳が、細かに記されています。たとえば、寺社領は二万石とし、不用な寺社領は収公するようにと指示されています。そのほか、小早川隆景に六万石余、吉川広家に十一万石と隠岐国を与えること、十万石を輝元の直轄領に、八万石余を京都における諸費用の捻出に宛てることが定められています。そして、これらを差し引いた七十三万石余で、軍役を果たすよう指示されているのです。

 

一方、『毛利家文庫』の中には、この時代の記録とされる、「八箇国御時代分限帳」などの資料が残されています。これらは、直轄とされた蔵入地、家臣団に与えられた所領や、寺社領などを書き上げたものです。このときの検地の結果をふまえたものとされていますが、合計しても百万石には遠く及ばず、七十数万石程度にしか届かないのです。

 

これについては、毛利氏検地の結果は、現実には七十万石余であったこと、しかもそれは、生産高ではなく、年貢量を示す収納高であったことから、報告を受けた豊臣側で、毛利氏の軍役基準が七十三万石となるような領知高を創出したと、現在では考えられています。

 

大名といえば、石高の多寡が気になるところですが、石高がどのようにして確定されたのか、数字にどんな意味が隠されているのか、そのあたりは見極めておくことが大切なようです。