山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第254回

2015.08.07

11850010(山口藩知事任命書・敬親宛)2015なに・ほっぷ254 写真は、明治二年(一八六九)六月、長州(山口)藩主毛利元徳に対して下された、山口藩知事への任命書です。

 

大政奉還に続き、王政復古の大号令を発し、新政権として発足した明治維新政府は、各藩の割拠状況を解消するため、藩権力の解体を構想します。数百年続く体制の転換には、一定の困難も予想されましたので、まずは、政府首脳が、自らの出身藩をそれぞれ説得することから始めました。明治二年正月二十日、彼らの出身藩であり、維新を主導した、長州・薩摩(鹿児島)・土佐(高知)・肥前(佐賀)四藩主からの建白として、版籍奉還が願い出されます。

 

この願い出は、受理後ようやく六月に入って、政府から許可されます。そして各藩の旧藩主を知藩事に任命したのが、この写真なのです。敬親は、すでに体調を崩していたのか、これより先の二月、上洛、参内して、隠居を願い出ていました。この願いは六月四日に承認されましたので、実際の知藩事には、嗣子の元徳が、六月十七日に任命されることとなります。

 

注目しておきたいのは、「山口藩知事」と、藩名が明記されていることです。今私たちは、藩主毛利氏が、萩もしくは山口を拠点に、領域支配を行った防長両国を、萩藩もしくは山口藩、あるいは長州藩などと呼んでいます。しかしこれらはいずれも、後世の私たちが、学術上、便宜的に呼び習わしている名に過ぎません。実のところ、江戸時代の人々が、この藩のことを何と呼んでいたか、という問いに対しては、必ずしも明確に答えられるわけではないのです。

 

幕府からの命令は、基本的には藩主宛に出されますから、宛名は「松平大膳大夫殿」など、藩主個人名が記されました。藩側も、自藩のことは、他藩と区別できれば、それでよかったので、自藩のことは「当家」「国家」、他藩のことは「他国」「他家」「松平安芸守様御家来中」などと呼び、必ずしも「何々藩」と呼ぶことは、一般的ではなかったようです。