山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

お問い合わせはこちら

第253回

2015.07.31

nt毛利家0731郭公図 写真は、福原元僴(ふくばらもとたけ)が描いた、郭公の絵です。

 

福原元僴といえば、禁門の変の責任を問われ、切腹した長州(萩)藩の三家老の一人として知られています。毛利博物館には、この元僴自筆の書として、『太平記』の楠木正成(くすのきまさしげ)が登場する一節と覚しき文を、書写したものが残されています。日付をみると、元治元年(一八六四)に兵を率いて上洛する直前のもののようです。

 

楠木正成といえば、大軍を率いて上洛する足利尊氏の軍勢を前に、南朝、後醍醐天皇への忠誠から、絶望的な防衛戦に臨み、兵庫の湊川で戦死したことで著名な人物です。元僴は、兵を率いて上京する自らを、正成になぞらえたのでしょうか。

 

前年八月十八日、宮門を固く閉ざした会津・薩摩藩などにより、長州藩は突如御所から閉め出されました。藤田覚氏によれば、これは、長州藩の攘夷戦を完全な失敗とみた幕府・薩摩藩などが、親幕派の皇族・公家と語らい、孝明天皇の許可を得て行ったもののようです。

 

翌早朝、三条実美(さねとみ)ら、積極的に攘夷を推し進めていた急進派の公家たちは、長州藩兵とともに、都を落ち延び、長州藩に向かいました。三条らの無断下京を激怒した孝明天皇は、明くる正月に勅宣を発して、三条実美や、三条を本国に「誘引」した、久坂玄瑞ら長州藩の下級藩士を厳しく糾弾しています。

 

こうした情報は、長州藩の許にも届いていたはずですが、国元では、防長二州の安危は顧みず、朝廷への忠節を貫くため、軍勢を上京させ、藩主父子の汚名をそそぐ方針が固まります。

 

福原元僴もまた、藩政を統括する加判役として、この方針を定める役割を担ったと思われますが、この正成の一節からは、元僴自身が、この「率兵上京」の成功を、どこまで信じていたかは疑問に思わざるを得ません。