山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第252回

2015.07.24

nt毛利家0724福原元僴像 写真は、福原元僴(ふくばらもとたけ)の肖像画です。元僴よりもむしろ、越後の名の方が通りがよいかもしれません。福原越後といえば、禁門の変後、幕府への恭順姿勢を示し、長州(萩)藩を幕府の征討から守るため、益田親施(ちかのぶ)・国司親相(ちかすけ)とともに責任をとって切腹した、三家老の一人としてよく知られています。

 

この三人は、いずれも禁門の変において、藩兵を率いて上京、実際に幕府軍と戦い、幕府からも名指しでその罪を問われている人物でしたから、その責を負った切腹だったのでしょう。

 

文久三年(一八六三)、参勤交代制度の緩和に伴い、国元と江戸方の二元体制を克服するため、長州藩は、大規模な機構改革を行います。それにより、国元において財政を統括する家老職である当職(とうしょく)、藩主に近侍してその補佐役を務めた家老職である当役(とうやく)は、ともに廃止されました。田村哲夫氏が作成した一覧によると、廃止直前の当職は福原元僴、当役は益田親施だったようです。その後も彼らは、藩主の下で様々な政務をとりしきる加判役として、藩中枢に残ったようです。

 

彼らの在職年代からすると、文久元年における幕府・朝廷への航海遠略策の進言、文久二年の藩是転換、さらには強硬な攘夷の実行なども、藩主敬親の下で、彼らが最終的な責任を負って進めた政策である可能性が高いと思われます。

 

しかし、実際の政策決定の過程で、福原元僴や益田親施が、どのような見通しを持って、どのような権限を与えられて、どのような決定を下し、藩主敬親や世子元徳に、どのような政策を提言したのか、あまり定かではありません。幕府から名指しで罪を問われ、藩としてもそれを受け入れて彼らを処罰し、最終的には本人たちも、切腹という形でその意向を受け入れたのですが、なぜ彼らが腹を切らなくてはならなかったのか、まだ明白とはいえないようです。