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第251回

2015.07.17

毛利家150717半5 写真は、久坂義助(玄瑞)が高杉晋作(暢夫)に宛てた書状です。

 

京で学習院に出入りし、三条実美ら攘夷派公家の知己を得た久坂は、彼らと連携し、幕府をして、文久三年(一八六三)五月十日をもって攘夷決行と宣言させます。決行当日、久坂は、「攘夷」と称して米国の商船を砲撃しました。しかしそれは、井上勝生氏によると、長州(萩)藩の馬関総督毛利能登の制止を振り切っての、しかも国際法上も違法な行為だったようです。

 

攘夷を強行した久坂たちでしたが、外国勢の反撃により、藩の海軍は壊滅します。こうした情報が京都にも届いたのか、八月十八日、長州藩は、孝明天皇の許しを得た幕府・会津藩・薩摩藩などにより、御所から追放され、三条ら長州派の公家たちも出仕を止められます。

 

やむなく三条らを同道して帰国した久坂ですが、藩主毛利敬親は、久坂らの外交上の失策を処罰することはなかったようです。それどころか、藩主父子の無罪を証明する使節井原主計への随伴を命じられ、上京することとなります。

 

この書状は、上京の途上、防府の宮市において認めた書状のようです。別れの挨拶ができなかった非礼を詫び、寛大な藩主父子の措置に感動するとともに、藩主父子の「冤罪」を晴らすために尽力することを、高杉に対して誓っています。

 

後半部分では、同志と思われる、佐伯梅三郎らの上京、久坂らとの協力を実現させるため、佐伯らの御前詰任務を解いてくれるよう、高杉に依頼しています。当時高杉は、藩主の下で枢機を司る政務座の役人でしたから、高杉の周旋による、人事の発令を期待したのでしょう。

 

高杉と久坂といえば、松下村塾の俊英として、互いに切磋琢磨した学友として描かれることが多いようです。しかし、この書状からは、藩の要路につながる高杉に対して、自らの政策実現のため、さまざまな事案をもちかける下級藩士の久坂、という構図も見えてくるようです。