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第250回

2015.07.10

nt毛利家0710利治親像 写真は、長州(萩)藩の八代藩主毛利治親(はるちか)の肖像画です。

 

治親は、七代藩主であった毛利重就(しげたか)と、正室登代姫との間に生まれました。彼には、兄が三人います。長兄の匡満は、重就が、長府藩主から萩本藩を継承したとき、主不在となる長府藩を継いでいました。続く次兄・三兄は早世したこともありますが、なによりも彼らの母が側室であったこと、治親は正室登代姫との間に生まれた最初の男子であったことから、治親が、四男でありながら、重就の正式な後継者とされたようです。

 

明和五年(一七六八)、十五歳の時、将軍徳川家治の一字を与えられ、「治元(はるなが)」と名のり、従五位下壱岐守に任じられて、幕府からも、重就の後継者であることを公認されたようです。その後明和八年(一七七一)には、将軍のいとこにあたる、田安宗武の五女節姫(ときひめ)を妻に迎えます。この婚姻を主導したのは、父の重就であったと考えられています。

 

天明二年(一七八二)、幕府への隠居願が受理された重就は隠居、治親が八代藩主となりました。これと前後して、治親も侍従に昇進するなど、藩は度々の臨時出費に見舞われました。それらによって生じた借銀返済のため、当職益田就祥以下の財務担当者たちは、重就の定めた特別会計「撫育銀」の一部放出を求め、藩主治親に願い出ます。しかし、治親はこれを却下し、当職以下を罷免・処罰するなど、却って願いを出した財務担当者らを断罪したのです。これは、重就の意向をふまえた上での、治親の処断でした。田中誠二氏によると、重就・治親両代は、重就の行った宝暦改革、なかでも撫育方仕法を固守する姿勢を崩さなかったようです。

 

重就は、隠居後、治親の初入国にあわせて萩へ行き、これまでの施政方針が微塵も揺るがないことを、重臣たちに宣言します。しかし、その成否は、嗣子治親やその跡を継ぐことになる代々の藩主たちが、忠実に重就の路線を継承するか否かにかかっていたのです。