山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第249回

2015.07.03

長州(萩)藩の七代藩主毛利重就(しげたか)といえば、宝暦改革を断行した、「中興」の藩主として知られています。彼は、財政基盤拡充のため、宝暦検地を断行しました。

 

検地完成後の宝暦十三年(一七六三)、財政担当の家老職である当職(とうしょく)毛利内匠(広定)は、重就の内命を受けて、今後の藩財政に関する基本方針を定めています。

 

それは、検地による増収をあてにせず、一般会計である本勘(ほんかん)の支出を、検地の開始時の宝暦九年(一七五九)に定めた収入の範囲に収めること、引き続き同年に定めた財政再建策を、揺るぎなく進めることでした。

 

藩主重就は、検地による増収四万石余を、本勘から引き離し、藩主直裁の特別会計としました。いわゆる撫育銀(ぶいくぎん)と呼ばれるものです。この時期の藩財政を詳しく研究している田中誠二氏によると、このnt毛利家150703画像差替撫育銀には、宝暦検地の増石のほか、山林税や検地以後の新開、検地による増石分に対応する馳走米などが含まれ、重就は、検地以後の増収分を、できればすべて撫育銀に繰り込む腹づもりだったとされています。

 

検地により財政基盤が強化されたことは確かです。しかしその成果のほとんどは、藩主直裁の撫育銀に繰り込まれ、一般会計である本勘は、これまでと同様の収入により、増大する出費や借銀返済にあたらざるを得ませんでした。また、年々の災害などにより生じる減損分である永否(えいぶ)も生じることから、当初定めた収入を確保できるかは、不明でした。

 

本勘を預かる所帯方(しょたいかた)は、当然、この方針に批判的でした。事あるごとに、重就の施策を批判したようです。しかし、重就と、その方針を忠実に受け継いだ八代藩主治親(はるちか)は、それらの批判をことごとく封じ込め、この財政基調を堅持しました。ただ、重就が、何を目的としてこの政策に固執したのか、そのあたりは研究の余地があるようです。