山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第248回

2015.06.26

DSC_0496(国政再興記)2015重就・ほっぷ248 写真は、「御国政再興記」という書物です。この書物は、長州(萩)藩の宝暦財政改革を断行した藩主、毛利重就(しげたか)が、その改革の成果を、詳細に説明したものです。

 

安永七年(一七七八)十月、当役高洲就忠が草稿を重就に上程、重就の承認後、後任の当役国司就相が奥書を付して、翌八年二月に完成したようです。写真では、冒頭に、「重就」と刻まれた黒印が押されています。ここからは、この書物が、重就承認による決定版であることを示し、細部にわたり、重就の意向が反映されたであろうことが想像できるのです。

 

冒頭「来由」の部分では、財政に関する重就の諮問に対する、坂時存の回答が記されています。それによれば、自然災害その他の原因により、生産力の衰えた「薄地」が増えたため、年貢を完納できない農民が増え、藩財政の負担になっていることが指摘されています。

 

宝暦財政改革の一つの柱が、宝暦検地でした。通常検地は、藩財政の基盤強化を目指して行われるので、年貢増徴のため石高を増やすことが目的とされます。よって、検地により不利益を被る階層の、種々の抵抗により、特に時代が下るにつれ、実現は難しくなっていました。

 

この検地を詳細に解明し、その実施過程を詳細に明らかにした田中誠二氏によると、重就は、この検地を行うにあたり、「厚薄」をならす、つまり、実測に基づいて、生産力を平均することで、百姓全体の耕作安定のために行う検地であると、明言したそうです。これは、それ以前の、五回の検地とは大きく異なる点でした。この時期、年貢の増徴を前面に押し出して検地を強行することは、時代状況に照らして、難しかったのだろうと推測されています。

 

この時期、増徴につながる全藩検地を断行しえたのは、この長州藩だけでした。しかしその長州藩、藩主重就といえども、百姓・家臣に対しては、検地の大義を、論理的に、かつ根拠を明確にしつつ説明しなくてならない、この時期はそういう時代だったようです。