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第247回

2015.06.19

nt毛利家0619柳図 写真は、江戸時代の茶人川上不白(ふはく)が記した、隅田川の渡しを待つ間の一時を詠んだ俳画です。句中の「青柳」に相当する部分を、文字ではなく、墨絵の柳で表す、俳諧ならではの軽妙な一幅です。

 

長州(萩)藩の七代藩主毛利重就(しげたか)は、茶道の師として、この不白に師事していました。もともと不白は、紀州(和歌山)藩の付家老水野氏の家中に生まれ、表千家七代如心斎に入門、その高弟として、江戸で千家流の茶道を広めた人物として知られています。不白の門弟は、豪商らだけでなく、大名・旗本など多数に及んでいたとされます。

 

不白が活躍したのは、九代将軍徳川家重と、その子十代将軍家治の時代でした。この両将軍は、紀州藩主から、徳川宗家を継ぎ、八代将軍となった徳川吉宗の子であり、孫でした。吉宗は、紀州から多くの家臣を引き連れて、宗家の家督を継いだとされます。彼らやその子弟は、吉宗以後も、家重・家治の治政を支えたとされます。将軍家重の小姓を務め、側用人から老中へと出世し権勢をふるったとされる田沼意次はその代表格だといえます。

 

不白は、晩年にいたるまで、主君水野家の下屋敷で過ごすなど、紀州とのつながりを絶やすことはなかったようです。先の田沼意次もまた、不白の門弟でした。不白が江戸で成功したのは、茶人としての有能さはもちろんのことですが、こうした紀州との強いつながりが、背景にあったことも間違いなさそうです。

 

重就入門の契機は、残念ながら不明です。茶堂に不白流を学ばせ、自らに手ほどきさせるほど、不白流の茶の湯を、熱心に実践していたことはよく知られています。重就の茶の湯そのものへの関心が高かったことはまちがいありません。しかし、時代状況を考えると、不白の広い人脈に連なること、これもまた重就の重要な目的の一つだったと考えざるを得ないのです。