山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第246回

2015.06.12

毛利重就(しげたか)が、長州(萩)藩の第七代藩主となったのは、寛延四年(一七五一)のことです。重就は、もともと支藩の長府藩主でしたが、本藩の六代藩主毛利宗広に嗣子がなかったため、仮養子とされていた重就が、藩主に迎えられたのです。

 

重就の家督相続は、まさに当座のものだったようです。重就には男子もいましたが、後継としては、越前丸岡藩主有馬一準(かずのり)の子、大三郎(のちの重広)が、重就の養子として迎えられました。小川國治氏によると、これは、大三郎が、二代藩主綱広の血統、すなわち、重就よりも、より濃く宗家の血を引いていたことによるものだそうです。

 

ところで、長い毛利家の歴史の中では、養子として家督を継いだ人物が、家を発展させた事例がいくつかあります。この重就もそうですが、幕末期に明治維新をなしとげた敬親しかり、戦国期に戦国大名に飛躍した元就もそうでした。

 

彼らに共通しているのは、当初は家督を継ぐ予定ではなく、前当主の急逝により、急遽当主となったことです。毛利元就の場合は、兄の興元に続き、その遺児幸松丸まで急死したため、すでに多治比殿として、分家していた元就に白羽の矢が立てられたのです。Print

 
父母を早くに亡くした元就が、京都に出陣した兄の帰国を心待ちにしていたことは、まちがいないようです。しかし同時に、隣接する宍戸氏との間に、抗争を引き起こし、泥沼の戦争にはまり込んだことを、父の遺言に背くものだと、批判もしています。

 

元就にとって、母が同じ兄に対する思慕の念は、まちがいないものでした。しかし同時に、宗家当主である興元に仕える、庶家の主として、興元の施策を冷静に見つめ、批判する目も持ち合わせていたようです。こうした、毛利家家臣としての立場からの冷静な分析が、その後、家督を継いだ際の、的確な判断に影響を与えたことは、まちがいないと思われます。