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第245回

2015.06.05

nt毛利家0605毛利重就像 写真は、長州(萩)藩の第七代藩主、毛利重就(しげたか)の肖像画です。箱書によると、重就六十一歳の記念に描かれたもののようです。七十余の長命を保った毛利元就・輝元を除くと、歴代の当主は、還暦を迎える前に亡くなっていますから、隠居とはいえ、無事還暦を迎えた重就は、当時としては異例の長寿として、さまざまな記念の催しが行われたようです。

 

江戸時代の大名の肖像画は、束帯(そくたい)姿、いわゆる公家の正装姿で描かれることが多くなります。これは、しかるべき官位・官職を帯びたことを視覚的に表現し、一定の領域を支配する正当な支配者であることを、示すためだったようです。

 

そのためか、武力で領国を支配する存在でありながら、武士の肖像画は、文官の束帯姿で描かれるようです。しかし、この肖像画は、やや様子を異にしています。

 

通常は冠の後ろに垂れ下がる嬰(えい)を巻いた、巻嬰冠(けんえいのかん)をかぶり、こめかみには扇形の老懸(おいかけ)を着して、背後には矢まで背負っています。これは明らかに、四位もしくは五位相当の武官の姿です。重就は、官位は従四位下、官職は左近衛権少将に任じられていますから、それを忠実に表現しようとしたのでしょう。

 

江戸時代、左右両近衛府の少将に任じられることを、少将成(しょうしょうなり)とよび、侍従成(じじゅうなり)に次ぐ、大名の出世の階梯と認識されていました。重就の少将成は、実に初代秀就以来となる、毛利家にとっては百五十年ぶりの快挙でした。田中誠二氏によると、それは、毛利重就の嗣子治親が、御三卿の一つ田安家から正室節姫(ときひめ)を迎え、毛利家が再び徳川将軍家の親族になったことによるものだそうです。

 

重就の家格上昇路線は、その後代々の藩主によって引き継がれていくことになりますが、その政策が藩政に与えた影響については、まだよくわかっていない部分も多いようです。