山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第244回

2015.05.29

訂_毛利家140214半5 写真は、文久三年(一八六三)八月、いわゆる八月十八日の政変で都を逐われ、長州(萩)藩士らに警護されて、長州に逃れてゆく、三条実美(さねとみ)ら七卿を描いた絵です。

 

明治維新の成就後、生き残った七卿の記憶に基づいて描かれたもののようです。風雨の中を逃れ行くかのような、やや大げさな描写は、かつての艱難辛苦に対する記憶が、ずいぶんと美化されているからなのでしょう。

 

この七卿らの脱出行は、天皇にも朝廷にも無断で行われました。翌年正月、孝明天皇は、一つの勅宣を発しています。そこで天皇は、それまでの三条らの行為を、久坂玄瑞ら、学習院に出入りしていた「鄙野の匹夫」の「暴説」を信じて、世界の情勢や国家の危険を顧みず、天皇の攘夷への希望を利用して驕り、「軽率」に攘夷の命令を発するだけでなく、あまつさえ討幕の兵まで起こそうとした、としてその失策を厳しく咎めています。

 

また、三条らに取り入っていた長州藩士たちを、藩主敬親を「愚弄」して、故なく外国船を砲撃し、詰問に下った幕吏を暗殺、三条ら廷臣を京都から私的に本国に誘引した「暴臣」「凶暴輩」と断罪し、必ず彼らを処罰すると宣言しているのです。

 

長州藩が、こうした情報をいつ入手したのかは、定かではありません。京都や幕府の動向は、八月十八日の政変後も、逐一手に入れていたようですから、この勅宣の写も、比較的早く長州にもたらされたと思われます。

 

三条らと長州藩の煽動により実行した攘夷戦は、大敗に終わり、日本の危機は却って深刻化しました。責任もとらず、無断で京を逃れた三条と、それを手助けした長州藩に天皇は激怒したのです。しかし長州藩は、天皇の怒りを、幕府や親幕派公卿など、「君側の奸」による誘導と考えました。そこで彼らを排除すべく、武力を伴って京都に攻め上るのでした。