山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第243回

2015.05.22

文久三年(一八六三)五月十日、長州(萩)藩は、関門海峡を通過する外国船を砲撃し、攘夷を実行しました。それは、幕府の命令に従ったものでした。ただ、外国との衝突を恐れた幕府は、実行に際して、さまざまな留保条件を付していました。その真意を汲み取った他藩は、攘夷を実行せず、長州藩のみが、全国でただ一藩、攘夷を実行する結果となりました。

 

nt毛利家0522攘夷褒勅 長州藩の攘夷実行を聞いた朝廷は、早速勅使を下し、写真の「褒勅」を、藩主毛利敬親父子に与えました。そこには、全国で唯一攘夷を実行したことを、激賞する言葉が記されています。

 

しかし、長州藩の行った「攘夷」とは、実際には、関門海峡を航行する外国商船への、無警告、無差別な砲撃でした。井上勝生氏によると、それは、当時でも国際法上認められるものではなかったようです。報復のため来襲した外国軍艦の前に、長州藩などが設営した砲台は無力でした。それどころか長州藩海軍も、なすすべなく敗北を喫しました。

 

後の話となりますが、諸外国は、長州藩による砲撃の賠償を、日本を代表する政府としての幕府に求めました。また、交渉の過程で、安政条約の実行、すなわち兵庫開港が強く迫られたようです。長州藩の攘夷実行と敗北は、却って日本を危機的な状況に陥れたのです。

 

長州藩の独断専行に対して、幕府は、長州藩を厳しく詰問し、反撃に転じます。また、長州藩と対抗関係にあった薩摩藩も、幕府や、京都守護職の会津藩と同調して、長州藩の追い落としを画策したようです。こうした動きに対して、攘夷への切なる期待を裏切られた孝明天皇もまた、長州藩への信認をあきらめ、長州藩勢力を御所内から一掃することに同意しました。

 

八月十八日、長州藩やそれに同調する三条実美らの公家が、参内を禁止されます。翌十九日払暁、三条らは、長州藩の警護の下、都を離れて長州藩へと下りました。いわゆる「七卿落ち」ですが、三条らの勝手な下京は、孝明天皇の怒りを、決定的に増幅させる結果となりました。