山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第242回

2015.05.15

文久三年(一八六三)四月二十一日夜、長州(萩)藩に対して、攘夷期限が、来る五月十日に定められたことが伝えられました。写真は、朝廷と幕府の取次役である武家伝奏(てんそう)の坊城俊克(ぼうじょうとしかつ)から手渡された、そのときのメモです。

 

nt毛利家0515伝奏仰書 攘夷期限の確定は、かねてからの懸案として、孝明天皇が熱望していたことでした。すでに結んだ条約を一方的に破棄し、外国との交渉の窓口を閉ざすことは、無謀と考えた幕府は、期限を確約することを避けていました。

 

煮え切らない幕府に対して天皇は、これまでの慣例を破り、賀茂社と石清水八幡宮へ自ら参詣し、攘夷を祈願することで、幕府に圧力をかけていました。石清水八幡宮への参詣には、すでに帰国していた藩主毛利敬親(たかちか)に代わって、後嗣である世子定広(後の元徳)が従うなど、長州藩も積極的に協力していました。

 

藩主父子だけでなく、久坂玄瑞など、過激な攘夷思想を持つ藩士たちもまた、公家の教育機関である学習院に出入りし、三条実美(さんじょうさねとみ)らの知遇を得ていました。彼らがどのような活動をしていたか、具体的には定かでありませんが、上下をあげた朝廷と長州藩の圧力に、幕府は、ついに屈して、攘夷期限を確定せざるを得なかったのです。

 

藤田覚氏によると、孝明天皇は、攘夷志士たちの学習院出入を抑えるよう、幾度も指示を出していたそうです。我が物顔で朝廷内に出入りする下士や、彼らの影響を受けて日ごとに過激さを増す三条らの活動を、天皇は、実は快く思っていなかったのです。しかし、攘夷実現を熱望する天皇にとって、三条や久坂らの、すべてを否定することはできなかったのです。

 

攘夷期限の確定は、長州藩の対朝廷・対幕府工作の一定の成果でした。これまでになく声望を高めた長州藩でしたが、それが維持できるかは、ひとえに「攘夷」実現にかかっていました。