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第240回

2015.05.01

訂_毛利家140214半5 写真は、刀を収納して携帯するための「刀筒(かたなづつ)」という木製の容器です。拵(こしらえ)ごと運搬できるよう、鐔(つば)があたる部分は、少し幅広に作られています。全体を梨地と呼ばれる技法で装飾し、毛利家の家紋「沢瀉」を全面にちりばめた豪華なものです。

 

江戸時代の大名は、参勤交代とよばれる制度に従い、隔年おきに江戸と国許を往復していましたから、そのような時に用いられたのでしょうか。

 

この参勤交代は、三代将軍徳川家光の時に制度化され、江戸幕府の根幹をなす法の一つとされていました。諸大名にとっては、将軍の膝下である江戸に伺候することで、将軍への忠節を示す意味合いもあったようですが、正室や後嗣を江戸に住まわせなくてはならず、とかく出費が多かったこと、藩の指揮系統が国許と江戸に二元化して、対立のもととなることなど、功罪こもごもの制度だったようです。

 

しかし、文久二年(一八六二)、勅使を奉じた薩摩藩島津久光らの圧力によって進められた幕政改革により、この参勤制度は大幅に緩和されます。二年一勤から三年に、しかも在府百日に短縮されるとともに、在府を義務づけられていた妻子の帰国も認められます。

 

田中誠二氏によると、早くもこの年九月ごろには、長州(萩)藩では、改革の内容を受けて、藩主夫人らの帰国が検討されたといいます。注目すべきは、同時に、江戸藩邸の彼女らの御殿「御裏御殿」を解体して、「山口御殿」用の資材にすること、江戸藩邸に蓄えられていた「穴蔵銀」を開封して蒸気船を購入することも、同時に決められたことです。

 

幕政改革に関しては薩摩藩に遅れをとった長州藩でした。しかし、攘夷実行に関しては、萩城から作戦指揮に適した山口への「移鎮」を推し進め、蒸気軍艦の購入による海軍力の整備など、他藩に先駆けた攘夷の準備によって、朝廷の信頼を一身に集めることに成功したのです。