山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第239回

2015.04.24

nt毛利家0424波平安周茎写真は、茎(なかご)とよばれる、太刀の握り手部分を拡大したものです。ここには刀匠が銘文を切ることがあり、それによって作者を特定することができます。

 

この茎には、「波平安周(なみのひらやすちか)」と記され、薩摩国(鹿児島県)を拠点に活動していた刀匠集団「波平派」の一人によって作られたものだとわかります。

 

この太刀は、その作風から、十六世紀頃に作られたとされますが、毛利家に伝えられたのは、文久三年(一八六三)、毛利敬親(たかちか)が朝廷から下賜された糸巻太刀(いとまきのたち)の刀身としてでした。

 

『もりのしげり』によると、この年正月十七日、参内した長州(萩)藩主毛利敬親は、小御所において孝明天皇に拝謁、この太刀を下されるとともに、参議に任じられています。江戸時代の武家社会において参議とは、最有力の国持大名が任じられる、近衛少将・中将を上回る官職とされ、毛利家のような一外様大名が、通常任じられる官職ではありませんでした。

 

この参議任命は、幕府が関与した形跡がみられず、朝廷単独での任命と思われます。攘夷を実行せず、なし崩しに開国を進める幕府に不満を持つ孝明天皇が、破約攘夷、つまりこれまで結んだ条約を破棄して、諸外国と断交することを強く願っていることを察した長州藩は、あの手この手で幕府を追い詰め、攘夷実現に向けて奔走します。糸巻太刀の下賜と、異例の参議昇任は、敬親の功績に対する朝廷からの褒賞だったのでしょう。

 

長州藩などの画策により追い詰められた幕府は、やむなく攘夷実行を孝明天皇に約束します。文久三年五月十日の期日をもって、攘夷を全国でただ一藩実行し、朝廷からさらなる褒賞を得た長州藩でしたが、諸外国からの反撃により攘夷は頓挫、孝明天皇の信頼は一挙に失墜し、京都を逐われることになるのです。