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第238回

2015.04.17

nt毛利家0417助広刀身 写真は、江戸時代前期の刀匠津田助広の作った刀です。この刀は、文久三年(一八六三)に毛利元徳(もとのり)が、朝廷から拝領した糸巻太刀(いとまきのたち)の刀身です。

 

父の長州(萩)藩主毛利敬親とともに、朝廷に対して忠節、具体的には、攘夷実現に向けて奔走していた元徳に対して、朝廷が褒美として下したのがこの太刀でした。

 

安政元年(一八五四)に、敬親の正式な後継者と定められた元徳は、将軍徳川家定より一字を与えられ、定広と名のります。激しく動く政局の中で、中央政局への関与を目指す長州藩は、当初は幕府に対して、積極的開国策としての「航海遠略策」をもって朝廷と幕府の周旋に乗り出しましたが、元徳は父の敬親とともに、朝幕間の周旋を行っていたようです。

 

文久二年(一八六二)に、長州藩が藩是を転換し、「朝廷への忠節」を第一とすることに転じると、元徳も積極的に朝廷に出入りするようになります。なかでも、文久二年以降、攘夷の諸準備や国制の改革、山口への藩庁移転などに専念するためか、敬親が在国がちになると、在国の敬親に代わり、元徳が朝廷との折衝役として前面に出たようです。

 

孝明天皇による石清水八幡宮への行幸計画など、この時期の元徳の活動は顕著でした。藩主である敬親だけでなく、後継者である世子にすぎない元徳にも同様に、天皇の軍権の象徴でもある、糸巻太刀が下賜されたのは、元徳の活動が、敬親と同等と評価されたからでした。

 

下関における攘夷の失敗を受けて、巻き返しを図る幕府や薩摩藩は、長州藩を京都から排除します。いわゆる八月十八日の政変ですが、この時元徳は、敬親とともに、大名としての栄誉を示す、幕府から与えられた官位官職、「定」の一字、「長門守」の称号をすべて剥奪されます。この処罰もまた敬親と同等でした。この処罰からは、幕府からもまた、元徳が、敬親と同じ働きをなしうる重要人物だと目されていたことがわかるのです。