山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

お問い合わせはこちら

第237回

2015.04.10

攘夷の実行に備えた長州(萩)藩主毛利敬親は、本拠を萩から山口に移すことを宣言しました。いわゆる「山口移鎮」とよばれる事件です。写真は、文久三年(一八六三)七月に発せられた、敬親の訓示を記した命令書の一部です。

nt毛利家0410毛利敬親御意書

 

このときの訓示によると、萩城は、阿武郡の一隅、日本海に突き出た場所にあり、「割拠」には適しているものの、「賊衝」の多い長州藩にとって攘夷には不向きであると述べています。すなわち、幕府や他大名と対峙しつつ、領国を守るためには適しているが、南北いずれにも海を抱え、とくに異国人との争点になる拠点「賊衝」を、南の瀬戸内海側に多く抱える長州藩にとって、領国全体の指揮には、決して利点にはならないと考えたようです。また海に突き出た萩城は、艦砲射撃の格好の的となる可能性もありました。

 

写真の部分では、領国の中央に位置し、戦闘指揮、出馬にも便利であると、山口に藩庁を移すことの利点を強調しています。

 

田中誠二氏によると、強硬な攘夷論で中央政界における主導権を握った長州藩は、早くから攘夷のため、藩庁の山口移転を計画し、攘夷のための城郭建築を計画していたとのことです。

 

またこの移転に伴い、新たな政庁を「政事堂」と称して、藩政中枢の改革が図られました。これは、前年の八月、幕政改革の一環として参勤交代の制度が緩和されたことへの対応でした。いち早く妻子を江戸から引き揚げた敬親は、江戸藩邸の組織を大幅に縮小し、国元への権能集中を図ったようです。その結果として、山口への移転と同時に、国元と江戸との二元体制を解消し、政策の出所を一本化する狙いもあったようです。

 

山口への移鎮を、防長移封以来の宿願とする人もいます。しかし、当時の政治情勢の中で、藩の首脳が何を課題としていたのか、そこからは、こうした可能性は低いと考えられます。