山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第236回

2015.04.03

文久二年(一八六二)七月、長州(萩)藩主毛利敬親は、それまでの「藩是三大綱」を転換し、「天朝への忠節」を第一とする方針に路線を転換しました。朝廷は「破約攘夷」、諸外国との条約破棄と外国人排除を求めていましたから、この先長州藩は、攘夷に向けて動くことになります。写真は、京都藩邸内において、方針転換を宣言した敬親自筆の訓示です。

 

「藩是三大綱」とnt毛利家0403_毛利敬親御意書は、「天朝へ忠節、幕府へ信義、祖先へ孝道」の三方針を同時にすべて成り立たせる、長州藩の政治活動方針でした。

 

ところで、天朝(朝廷)に忠節を尽くすこと、幕府に対して信義を以て接すること、この二方針が示す藩政の方向性は、黒船来航以来の政治情勢の中で、中央政界への進出を図ろうとする長州藩の意図として、とてもわかりやすいように思われます。

 

では最後の「祖先へ孝道」、これはなぜわざわざ藩是とされたのでしょうか。敬親は、これより前の安政二年(一八五五)、海防をめぐって、藩士たちに対し、訓示を行っています。そこでは、毛利元就による正親町天皇即位料献上の故事を引き、毛利家が歴代勤皇の家であることを強調しています。同時に家臣たちを、関ヶ原の大敗北以降も毛利家を見放すことなく、萩築城などの困難をともに乗り越えた「義心鉄石の者共」の子孫だと称えた上で、その祖先にならって、ひきつづき毛利家と長州藩のため忠節を尽くすよう求めています。

 

すなわち、現在の藩と藩主毛利家、いわゆる「国家」に対する忠節と、祖先に対する孝道がここで結びついているのです。当時はどの藩士も、藩の借財返済に充てるため、多くの馳走米を供出させられるなど、藩財政窮乏のしわ寄せを受けて、困窮を極めていました。その藩士たちに「祖先への孝道」と称して、さらなる負担を求めざるを得なかったのです。敬親の訓示がやや歯切れ悪いように思われるのは、藩士に対する心苦しさの反映だったのでしょうか。