山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第235回

2015.03.27

毛利家絶対な基本形半5_cs6写真は、長州(山口・萩)藩最後の藩主、毛利元徳(もとのり)の正室、安子(銀姫)の肖像画です。明治時代に入ってから、夫君の元徳と同時に描かれたものらしく、写真を元にした写実的な顔立ちをしています。

 

『もりのしげり』によると、銀姫は、天保十四年(一八四三)、毛利家の支藩長府毛利元運(もとゆき)の二女として、江戸日ヶ窪の長府藩邸で生まれたようです。母親は、元運の正室であった土浦藩土屋家九万石の姫君でしたから、何事もなければ、長府藩や土浦藩と同じような規模の藩主の正室におさまって一生を過ごしていたのかもしれません。

 

ところが、嘉永四年(一八五一)、萩本藩の主毛利敬親(たかちか)が、銀姫を養女に迎えました。さらに、安政五年(一八五八)には、同じく養子として徳山毛利家から迎えられ、藩主の後継者である世子(せいし)となった元徳と結婚、次代の萩藩主正室に据えられたのです。

 

実子を幼くして亡くし、子宝に恵まれなかった毛利敬親は、この銀姫・元徳の他にも、一族毛利信順(のぶゆき・十代藩主毛利斉煕の子)の子信明や喜久姫、少し遅れて分家吉川経幹(つねまさ)の三男重吉(ちょうきち)を養子に迎えています。

 

江戸時代、早世した先代藩主の子女を、養子として他家に縁組みさせた事例はたくさんあります。しかし、敬親のように、先代藩主ゆかりでもない一族の子女を、何人も養子に迎え、しかも家督を譲り渡した例は他になく、注目されます。

 

幕末動乱期、幕府や諸外国との対決によって危機に瀕した萩本藩を、長府・徳山・岩国の各支藩主が、それぞれの立場から支援し、結果として明治維新にたどり着いたことは、よく知られています。結果は結果として、それに先立ち、なぜ敬親が、一族の子女と縁組を交わしたのか、時々刻々と変わる幕末の政治情勢の中で、慎重に検討してみる必要がありそうです。