山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第234回

2015.03.20

毛利家150320半5 写真は、長州(山口・萩)藩最後のお殿さまとなった、毛利元徳(もとのり)の肖像画です。明治時代になって、写真などをもとにして描かれたものらしく、威厳ある姿で描かれています。

 

『もりのしげり』によると、元徳は、天保十年(一八三九)、分家の徳山藩主毛利広鎮(ひろしげ)の十男として生まれたようですが、嘉永四年(一八五一)十一月に、本藩の十三代藩主毛利敬親(たかちか)の養子になっています。同じ年に敬親は、同じく支藩主の長府毛利元運(もとゆき)の二女銀姫を養女としています。下って安政元年(一八五四)二月、元徳は、銀姫と婚約し、正式に敬親の婿養子となったようです。

 

この年、元徳は、正式に敬親の後継者として幕府に届出されたらしく、翌三月には、将軍徳川家定から一字を与えられて「定広(さだひろ)」と名乗り、長州藩の格式に従って、従四位下侍従・長門守に任じられています。

 

実は、元徳が敬親の養子とされた、嘉永四年十一月には、元徳より四日ほど遅れてはいますが、もう一人、一族で十代藩主毛利斉煕(なりひろ)の孫信明(のぶあきら)が敬親の養子とされているのです。子どものなかった敬親は、江戸からの帰国に際し、信明の父信順(のぶゆき)を仮養子として届けていました。仮養子とは、国許で藩主が急死した時、後継とされる重要な人物でした。しかも、十代藩主の血を引く、たった一人の男子でしたから、信順・信明父子は、敬親後継者の有力な候補であった可能性が高いのです。

 

この事実とあわせると、元徳が敬親の養子とされ、正式に藩主の後継者である世子とされるまで、実質二年の時間差があるのは、どう説明すべきなのか、回答が見いだせません。

 

幕末の長州藩政史は、維新の成功を受けて、すべてを予定調和的に説明する傾向が強いようです。その一方、この問題のように、十分な説明がなされていないことも、案外多いのです。