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第233回

2015.03.13

訂_毛利家140214半5写真は、毛利家の雛道具です。写真ではうまく伝わりませんが、いずれも数センチ程度、櫛に至っては一センチにも満たない小さなものです。

 

四辻秀紀氏によると、公家や将軍家では、こうした小さな雛道具は、「御内証(ごないしょう)」の雛とよばれていたそうです。この場合の「御内証」とは、おそらく「内々の」くらいの意味と思われ、字義どおり、姫君方が、自らの居室で楽しむためのものだったようです。「御内証」の雛人形や雛道具は、対面所や広間など公的な場で、家臣団にも披露される、大型の雛人形や雛道具とは、区別されていたようです。

 

毛利家の場合、そのあたりの事情は、今のところ判然としません。ただ、普通なら、姫君ゆかりの家紋が記される場所に、家紋ではなく菊菱の文様が描かれています。毛利家の家紋「沢瀉」が輝く大型の雛道具とは、かなり趣が異なりますから、毛利家でも同様だったのでしょう。

 

この雛道具は、幕末の藩主毛利敬親の正室都美姫(とみひめ)のものだと考えられています。都美姫は、天保四年(一八三三)、十二代藩主斉広(なりとお)の長女として江戸桜田の上屋敷で生まれました。弘化四年(一八四七)、十五歳の時、敬親の正室として婚儀を挙げています。いつごろ婚約が成立したのか、定かでありませんが、成人までは、十二代の忘れ形見として、その頃江戸で暮らしていた祖母の法鏡院(十代斉煕の正室)の手元で、大切に育てられていたと思われます。加えて、藩主正室は江戸住まいが習いでした。したがって、都美姫の雛道具は、江戸の長州(萩)藩邸であつらえられ、飾られていた可能性が高いようです。

 

すべて江戸の流儀で暮らしていた都美姫が、雛道具とともに、萩に帰国したのは、文久二年(一八六二)十一月のことです。それは、参勤交代制の緩和に伴う措置でした。以後都美姫は、ここ長州の地で、攘夷・倒幕など、激動の数年間を過ごすことになるのです。