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第231回

2015.02.27

nt毛利家0227次郎左衛門雛 写真は、毛利家ゆかりのお雛さまです。「次郎左衛門雛(じろうざえもんびな)」といい、まん丸い顔に、素朴な目鼻立ちが愛らしく、今なお人気の高い雛人形です。

 

納箱に「梅印」と記されていることから、明治時代に「梅御殿様」と呼ばれていた、毛利敬親夫人都美姫(とみひめ)所用の雛人形だとされています。

 

長州(萩)藩の十三代藩主となった毛利敬親は、十一代藩主毛利斉元(なりもと)の長子でしたが、十代藩主斉煕(なりひろ)の子、斉広(なりとお)が十二代藩主となりましたので、本来は藩主となるべき人物ではありませんでした。しかし、天保七年(一八三六)の末に、斉広が急死したため、急遽斉広の養子とされ、十三代藩主に就任したのです。

 

藩主となった敬親の正室に迎えられたのが、斉広の忘れ形見であった都美姫でした。『もりのしげり』によると、義理とはいえ兄妹の婚礼は、さすがに憚られたのか、都美姫は、一門の娘ということにして、婚儀が進められたということです。

 

父の斉広が亡くなったのは、都美姫三歳の時でした。斉広の正室和姫は、すでにこの世にありませんでしたから、彼女の養育は、夫の死後も江戸にとどまっていた、都美姫にとって祖母にあたる、十代藩主斉煕の正室法鏡院が行ったと思われます。

 

都美姫は、将軍家から嫁いできた斉広の妻和姫の遺品、三つ葉葵の紋が描かれた長持(ながもち)を、母の形見として引き継いでいます。これは、当時奥向きを仕切っていた法鏡院の意向だと思われます。法鏡院は、都美姫を、斉広の後継がわりと考えて養育したのでしょう。傍目にも明らかに無理のある婚礼が推し進められたのは、斉煕・斉広の血統を重視した法鏡院の意向があったのでしょうか。この雛人形の豪華さは、都美姫にかけられた期待の大きさに比例していたのかもしれません。