山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第230回

2015.02.20

nt毛利家0220毛利敬親御意書 写真は、安政二年(一八五五)、毛利敬親が、萩(長州)藩の重役に語った自筆の御意書の一部です。この御意書によると、近年日本近海に出没する異国船への対策として、孝明天皇が、全国諸寺院の梵鐘を、鋳つぶして銃砲にせよと命じたようです。この命を受けた敬親は、祖先毛利元就が、正親町天皇の即位料を献上した故事を引き合いに出し、毛利家が代々勤皇の志篤い家であるとした上で、萩藩士が、元就の孫輝元が関ヶ原の戦いで敗れたにもかかわらず、防長移封に付き従った「義心鉄石の者の子孫」だとして、藩士一同に対して、さらなる海防への協力を求めています。

 

萩藩は、これより先、黒船の来航に備えて、江戸湾の防衛を幕府から命じられていました。これへの対処として、幕府よりは、相模国内(神奈川県)の幕領支配権を一時的に給与されたり、大砲をはじめとする武器運搬のための、街道における人馬の優先利用を認められていたようですが、それでもなお、萩藩にとっては大変な物入りだったようです。

 

敬親が行った諸改革のうち、著名なものに「公内借捌(こうないしゃくさばき)」という政策があります。これは、田中誠二氏によると、藩および藩士が背負っていた、藩からの借銀「公借(こうしゃく)」と、諸商人らよりの借銀「内借(ないしゃく)」を、一定の基準の下に圧縮し、返済を軽減する政策でした。そしてそれは、借財で硬直した藩財政を改善させると同時に、負債にあえぐ藩士の家計を再建することで、藩運営を担う人材を育てるとともに、藩が目指す海防に、藩士の力を注ぐためのものだったといいます。

 

この御意書の中でも敬親は、「公内借捌」の趣旨を理解した上で、藩士のさらなる忠節を求めています。ただ、かなり回りくどい言い回しは、必ずしも軍事に専念できない藩士の実情を、敬親なりに理解していたからなのでしょう。